京薬会について

<京薬会の目的>
 同窓会には、青春時代を同じキャンパスで過ごした経験を共有する仲間集団、同じ分野の気のおけない専門家集団、信頼できる情報の提供・共有、広い人間関係の構築、大学の後輩育成や設備充実・発展への助力、そして同窓会活動を通じての社会貢献 などの機能があると考えられます。人との連携が薄れ、過剰・雑多な情報が錯綜する時代の中で、信頼できる仲間としての同窓会の役割は見直されるべき価値があります。そして、同窓会活動の基礎にあるのは、自分の利益や単なる郷愁あるいは義務感ではなく「ボランティア精神」であり、「母校および社会への貢献」が同窓会を支える人々の共通意識として定着することが大切です

従って、たとえ遠く離れていても同じ風を感じ、同じ志・心を持つ仲間、すなわち「千里同風」、「万里同心」の精神で母校を支えていく必要があります。
 現在、京薬会はこのような認識と創立137年の誇りを基本におき、同窓会としての求心力の向上を図りながら、母校への支援活動、医療人としての卒業生薬剤師の資質向上のためのリカレント研修、講師バンクなどの生涯教育活動、卒業生・全国地域の支部・本部間の双方向情報交換などの活動を通じて母校および社会へより高いレベルで貢献することを目指します。目下の主な活動・事業を以下に列記します。

<京薬会の主な活動・事業>
会誌の発行(年2回)およびWebサイトによる情報交換
代議員総会、支部総会の開催・支援
本部役員会、常任幹事会、各委員会の開催
母校、在学生への多種・多岐にわたる支援・協力
リカレント研修の開催、講師バンクによる教育支援
卒業祝賀会の開催
ホームカミングデーの開催
京薬グッズの考案・頒布
会員名簿の維持・管理
会員への災害支援
会員・在学生の栄誉表彰
関連各種団体との情報交換


<京薬会の歴史>


 京薬では、いわゆる同窓会―京都薬学同窓会(1890)・京都薬学校同窓会(1911)・京薬同窓会(1920)―と並んで、1904(明治37)年までに学内を中心に薬窓会という団体が生まれ、太平洋戦争中に解体を余儀なくされるまで長期間にわたって維持されてきたことに特徴があります。薬窓会は、その会則が最初に作成された時期が明らかではありませんが、在校生を中心とした校内部(正会員)と京薬出身者を中心とした校外部(特別会員)とで組織されていました。
 1919(大正8)年には専門学校への昇格、1932(昭和2)年には山科への校地移転が実現しますが、1931年からの十五年戦争のなか、政府は1940(昭和15)年9月以来、高等諸学校に対して、「校友会その他の校内団体を再組織し、一意報国精神に基づく心身一体の修練組織として」、報国団等の名称をもつ組織の結成を指示しました。さらに、翌1941年3月には各知事宛に通牒によっても示してきました。学校報国団の組織は、全教職員・生徒が参加し、総務・鍛錬・国防訓練・学芸(文化)・生活等の部が置かれ、必要に応じて部の中に班が設けられるというものでした。
 京薬では、同年7月に薬窓会校内部が報国団となり、「京都薬学専門学校報国団規約」が制定されました。そこでは、「本団は教学の本旨に則り、全校一致、心身の修練に努め、負荷の大任に堪えうる、質実剛健なる人物の錬成を」目的に掲げていました。ついで9月には「報国隊要綱」が制定され、10月に報国隊が結成されます。報国隊は「京都薬学専門学校報国団を強化し、有事即応の体制を確立するため」に報国団の中に設けられた軍隊的組織で、言い換えれば、報国団の実践的組織でした。報国団や報国隊への再編は自主的な薬窓会の消滅を意味しました。報国団は、「修練」や「錬成」を謳っていましたが、実際には食糧増産や軍需工場での作業など、教職員・学生を戦争に動員する手段として機能し、教育は空洞化していきました。
 他方、校外部は同窓会の形を残して1943年4月に京薬会を結成します。当時の藤井勝也薬窓会会長が、校外部(卒業)生について京薬会への改組案を示しましたが、結論が出るまでに難航し、数回の委員会での審議を経て、ようやく1943年4月10日の創立総会にまでこぎつくことができました。さらに翌1944年10月25日には京薬会の機関誌『京薬会誌』が創刊されます。しかし、戦争末期の出版事情の悪化のため、創刊号だけ発刊したあと一時中止になってしまいました。
 戦後の占領下の改革の一環としての教育改革のなかで、京薬においても新制大学への移行計画を定めましたが、設備の充実などに多額の資金が必要となり、ここに卒業生の支援と協力を依頼することになりました。しかし、戦時中に組織された京薬会と母校の京薬とをつなぐ唯一の疏通機関であった『京薬会誌』は、第1号を出したまま再発行の目処がたっていませんでした。また、戦後の混乱のなか、卒業生の所在も充分に把握することができない状態でした。こうした状況の中、貧弱な用紙事情でしたが、1947(昭和22)年9月1日付で『京薬タイムス』と題する連絡紙が発行され、卒業生に呼びかけを行うことになりました。このことが、翌1948年5月の京薬会の全国大会開催に預かって力があったのです。第7号(1949年10月)までの発行で終了したこのタブロイド版の連絡紙は、外観こそ貧弱なものでしたが、その果たした役割は大きかったといえます。
 薬科大学設置のために先立つものは、やはり資金でした。全国の卒業生に呼びかけて支援を依頼するため、校長・理事・教員が分担して全国をまわり、各地の京薬会支部の卒業生に訴えることにしました。またこれにより、消息が途絶えていた各地の卒業生の間のつながりが回復し、京薬会再建にも結びついていきました。こうした努力の結果、1948(昭和23)年5月に京薬会全国大会が開催され、熱心な議論のあと「単独大学昇格期成委員会」の設立が決議されます。また、この日までに全国から287万2千円余りの寄付申し込みがあったといいます。さらに、同年10月に開かれた京薬会全国大会において「京都薬科大学後援会」が設立され、会長名で「学園後援会設立について」の訴えが出されました。
 1949(昭和24)年4月、京都薬科大学が誕生するとともに、『京薬会誌』第2号が刊行され、以後、故藤井勝也学長の題字のもと、毎年2号ずつ刊行され現在に至っています。
 2021(令和3)年現在、京薬会の会員数は、卒業生・大学教員・教職員経験者有志・外国人留学経験者有志および他学出身の論文博士学位取得者有志の正会員、および在学生の学生会員を合わせて約17,000名です。  2023(令和5)年には、京薬会創立80周年を迎えることになります。会員のみなさんのさらなるご支援をお願いする次第です。